三島由紀夫『卒塔婆小町』について

近代能楽集『卒塔婆小町』(三島由紀夫作)について

近代能楽集とは三島由紀夫によって書かれた古典の能をモチーフとして書かれた戯曲集です。『卒塔婆小町』はその近代能楽集に収められた作品です。本来の能は室町時代に観阿弥(1333年〜1384年)や世阿弥(1363年〜1443年)らによって多くの作品が作られましたが、三島由紀夫の「近代能楽集」では「近代」と名付けられていることからもわかる通り、場面の設定はすべて現代に置き換えられて書かれています。

すなわち、近代能楽集の『卒塔婆小町』は観阿弥によって書かれた能作品である『卒塔婆小町』を元に現代の戯曲として書かれた作品です。なお、『卒塔婆小町』は古典の能では代表的な作品であり、また三島由紀夫の近代能楽集『卒塔婆小町』も、その上演回数も数多くある人気作品です。

『卒塔婆小町』(観阿弥作)について

三島由紀夫作『卒塔婆小町』の元になっている、原作の『卒塔婆小町』について簡単に解説いたします。

 原作のあらすじは、旅の途中の僧侶が、卒塔婆に腰掛けている老婆に出会い、仏様の象徴でもある「卒塔婆」に腰掛けていることについて、不謹慎である、と老婆を注意する場面から始まります。すると老婆は「むしろ仏に咎められることで仏と縁を持つのだ」などと軽妙に言い返し、しまいには逆に僧侶を言いくるめてしまうような問答が繰り返されます。そこで僧侶は、見すぼらしい姿にも関わらず、頭の回転の速い老婆に感心し、「お前は誰だ」と質問すると「小野小町(おののこまち)の成れの果てだ」と、自身の素性を明かします。

小野小町は、世界三大美女(他に、楊貴妃、クレオパトラ)のひとりと言われ、絶世の美女であったとの伝説が語られています(能が書かれた室町時代にもその名は伝説として残っていたことが推察されます)。

五輪卒塔婆

僧侶たちは驚き、なぜこのような零落した姿になったのかと老婆(小町)に問いただします。すると、小町は、私に熱烈に恋した深草少将(ふかくさのしょうしょう)の怨念によって、かつての美貌、名声、若さも全て失い、今のような落ちぶれた姿となって生きながらえている、と話します。

原作ではこの場面で深草少将が小町に憑依し、小町が深草少将に課した仕打ちの場面(百夜私のところへ通えば、私への恋の成就を叶えてあげようと提案するが、少将は九十九日目に死んでしまう:百夜通いの伝説)を狂ったように再現し、それを見た僧侶は念仏を唱え、小町を成仏させて終わります。

能の基本的なストーリー構成

ここで「憑依する」という表現が出てきましたが、能の基本的なストーリー構成は、あの世(死後の世界)の人物(主役:シテ)が現世の人物(相手役:ワキ)に憑依したり、あるいは夢の中に現れ、生きていた時に果たせなかった思いや、思い残した心情や恨みなどを語った後、成仏され再びあの世に帰る、というストーリーの定型を持っています。当時の平均寿命も現代と比べると極めて短く、才覚や美貌を持ちながらも、若くして斃れる人物も多かったことが想像できます。そのような視点から見ると、物語の最後に「成仏」される展開は、人物への弔いの意味も込められていました。

能の演目は約200近くあると言われますが、それらのほぼ全てと言っていいほど、あの世の人物がこの世で思いを語ることで再びあの世に帰り成仏していくという展開となっています。ちなみに、能舞台にある「橋がかり」とはあの世(舞台奥)とこの世(能舞台)を繋ぐ橋の役割を担っています。

橋がかりと能舞台

三島由紀夫の『卒塔婆小町』

一方、三島由紀夫の『卒塔婆小町』では夜の公園が舞台となります。主な登場人物は老婆と青年の二人です。原作と同様に、老婆と青年のやり取りを基軸に物語は構成されています。

青年(詩人)が公園のベンチに座る老婆に対して、公園にいるカップルを邪魔するかのように、「毎晩なぜ座るのか」と問う場面から物語は始まります。青年のこの問をきっかけに、老婆は青年の理想とする恋に対する考えを次々に否定していきます(このくだりについては戯曲をお読みなっていただければわかると思います)。

本作では、青年は公園にいる男女のカップルを見て、老婆に対し、恋愛におけるロマンチシズムこそ、美しい世界であり、自ら求めている理想であると語ります。これに対し、老婆はロマンチシズムに浸かっているような世界は死んだ世界だと反論し、青年を否定する問答を続けていきます。

そして、老婆が自分の過去について語り、「私は小野小町であった」と青年に自分の素性を打ち明けます。原作と同様に、見すぼらしい老婆の姿を見て、青年はその話を信じることができませんが、次第に老婆の話に引き込まれ、老婆が若かりし時、深草少将に求愛された時の語りをもとに、戯れに二人でそのシーンを再現するようになります(本作では明治初期の鹿鳴館の時代設定)。

そこで老婆は青年に対し、私を綺麗だと言ったら、命を落とす、という一つの約束事を課します。しかし、青年は老婆の若かりし頃のシーンを再現するうちに、本当に老婆が美しく見えるようになり、いつの間にか老婆に惚れてしまい、老婆に戒められながらも、青年は課せられた約束事を破り、死に至ります。

三島由紀夫の追求したテーマ

この場面の意味については、演出によって様々な解釈が生まれますが、美のために命を賭すことと、生きることの虚無についてのメタファーが隠れています。この二つのテーマは人間の生き方に関する根源的な問いであると考えられます。

物語は、この問題が抽象化され老婆と青年、老いと若さ、さらには「美」と「死」という対極構造の象徴によってストーリーが展開されていますが、この二つのテーマは人間として生きる上で今後も解決されない永久の課題、人間として生まれながらに持つ「業」とも言えるテーマを扱った作品とも言うことができます。

美のために命を落とす実例は数多く見受けられます。もちろん本作のように実際に誰かに憧れて、思いの果てに命を落とすこともありますが、美というものを「魅力」として考えてみると、人は引き込まれずにはいられなくなります。そして、その魅力に取り憑かれ、ある一線を超えたところに、三島の言う「死」が待ち受けていることがあります。

現代における「美」

美(魅力)と死の問題は人以外にも、現代における科学技術を追求する場面にも存在します。最たる例は、核兵器の開発なども人が取り憑かれた魅力の一つだと思われます。第二次大戦では実際に使われて、その結果は周知の通りです。しかし、人はひとたび魅力に取り憑かれれば、自らの行為を正当化し、その行為を遂行します。取り憑かれている時の人間はもちろん正気ではありません。

戦争でなくても、ゲノム医療や過剰なA I開発も後先を考えずに突き進む、魅力に取り憑かれた人間の本性かもしれません。ゲノム医療が進んだ先にあるのは、利益だけではなく未知なる問題を生む発端になる場合もあります。A I開発についても、人が人工知能に逆に支配されてしまうことを予見するような、シンギュラリティの問題などが取り沙汰されています。

しかし、老婆の言うような世界、すなわち、夢の中ではない、魅力のない、虚無の現実、虚無の中に生きることをほとんどの若い人たちは選択できないのではないでしょうか。死の危険から遠ざかっているものの、虚無の現実を直視した毎日に生きること。それは、悟りとも言える日常に生きること。本作の老婆の言葉はそんな永遠のテーマを達観しているようにも感じられます。三島由紀夫という作家はこの「美」と「死」というテーマについて類い稀なる感性を持って取り組んできた作家だと思います。

本作を見に来られるお客様の一人一人も、生きていく上で様々な問題を抱えていると考えられますが、「美」と「虚無」いう、この極めてシンプルな二つのテーマを扱った本作は、現代に生きる人々の気持ちに訴えかける作品となっていくと思います。

山中湖国際演劇祭 実行委員会プロデューサー

伊藤久敬